ひとことの彩

 

 

 

詩がすきだ。あまり人に言いたいことではないが、ここ数年色々な詩の本を読んできた。

語れるほどの知識は何もない。そもそも詩というものを語ること自体野暮なことかもしれない。ただ目の前にある言葉の1つ1つを、自分の中にある受け皿のようなものに入るかどうか、つまみあげて確認する。その作業の繰り返しだ。全く受け付けないこともあれば、これはおれのために作られた詩じゃなかろうかとおもうほどピッタリ皿にはまることもある。そのピッタリはまる瞬間を求めて、詩を読み続けている。

 

心がくだけてしまう経験が、今まで何度かあった。高校生の頃、失恋してはじめて自分の心がくだける瞬間を見た。あの頃は若かったからね〜と笑って済ませたいが、今でもあまりその辺は変わらないのでそれについては言及しない(一切の言及を禁ずる)。

 

ぼくはその時、今まで興味があったものに途端に感情が向かなくなってしまった。色々なものがうそっぽく思えていやになった。でもどこか救われたいという気持ちを持ちながらもやもやしていた。

 

はじめに興味を持ったのは、萩原朔太郎の詩だった。彼の詩に「死なない蛸」という中編の作品がある。ぼくはたまたま図書館で読んでそれをとても気に入り、何度も読み返した。自分の中にある言葉にできない感情が、この人の中にあると思った。今読み返しても彼の詩は頭一つ抜けている。非常にバランス感覚に長けた人なのだと思う。

 

ぼくは未だに落ち込んだ時は詩を読む。それ以外に自分の心を救ってあげる方法を知らない。

大手拓次八木重吉立原道造、松下育男、北園克衛、色んな人の言葉に何度も救われた。言葉の可能性はあまりに大きく、底が知れない。だからもっと勉強したいし、自分から出た言葉で人に対して良い働きかけが少しでもできたなら、それはとても素晴らしいことだと思う。心からそう思う。

 

 

教育実習の選考会で、「国語教師を目指す理由はなんですか。」と聞かれた。

ぼくは「言葉を信じているからです。」と即答した。かなり真剣な顔で言った。あの時の面接官のぽかんと口の開いた顔をぼくは永遠に忘れない。はだしのゲンなら口に馬糞突っ込んでいるシーンだ。あいにく持ち合わせがなかったが。

 

 

もう2時になったので寝る。夜はけっこう独り言のように頭にポツポツ言葉が浮かぶので、少しはこういった風に書きとめようと思う。ほんじゃ。